千夜一夜dream 克久ー1
湯舟を出てガラス戸を開けると縁台にでる。縁台の先は、池が広がり池端は竹藪となっている。
縁台には、藤の長椅子がある。私は、長椅子にタオルを敷き横になった。先週から雨を降らせている秋雨前線は、関東北部に洪水をもたらし多くの被害を出している。
何処からか淡く甘い金木犀の香りが漂う。また、雨が降って来た。風に流されて私の体にも雨粒がとんでくる。
縁台横の枝折戸が静かに開きこの隠宿の主、お香がお盆に2合徳利とぐい吞みを持って入ってきた。白地に薄いピンクの和服を細身にきりっと着こなしている。まだ20代半ばだが料理の腕は一流である。
彼女は、藤椅子の横に腰を落とすと
「克久さま、雨が当たってますわよ。寒くはございませんこと」
と言いながらぐい吞みに熱燗をなみなみと注いでくれた。
「あー、お香、久しぶりに風情のある雨に打たれて癒されていますよ」
「今日の試合は、楽しまれましたか」
「あー、先発で5回まで投げました。4打数2安打1得点まあまあでした」
雨は、小降りになったが風が出て来た。池端の竹林がざわめいている。
「地震や津波、洪水があったり世の中は随分大変ですけど此処だけは別世界みたいに静かですわ」
「そうだね。まるで夢のような気分です。いつまでも帰りたくないね」
「まあ、うそ、うそ、うそだわ。そんな事おっしゃって。本当は早く奥様のところにお帰りになりたいのではございませんこと」
「おい、おい、年寄りをいじめてはいけませんよ」
熱燗は、私の体の中に浸み渡り五臓六腑が踊り出しそうだ。
「克久さま、少し酔いが落ち着かれましたら隠し湯の方にお出でください。私も片付けが終わりましたら参りますほどに」
中央高速道路を降り、一般道を走り、くねくねと続く山道を30分程のところを谷筋に下った所にこの隠れ温泉宿はある。客間の外側には、渓流が流れている。釣りの好きな私はこの廊下から竿を出し、渓流釣りを楽しみ、飽きたらすぐ後ろの客間で読書が出来るこの宿が好きだ。
火照りが取れた私は、枝折戸から渡り廊下を隠し湯に向かった。渡り廊下の下は池の続きで錦鯉が回遊している。廊下の突き当りにある木戸を開けると湯けむりがたち込めた湯殿が見え、もう、お香が先に入っていた。白いうなじのお香は振り向いて
「私も、今来たばかりですのよ。湯加減はいかがでしょうか」
私は、足にお湯を汲んで流し、ゆっくりと湯舟に入った。湯殿は、岩石に囲まれた中にふたりが入れるほどの檜の風呂だ。
ひたひたと流れる源泉の音だけが聞こえる静寂の中にうっすらと汗を滲ませたお香の横顔が静かにこちらを向いた。
戻る
千夜一夜dream 克久ー2
あっと言う間にひと月が経った。今日は、秋晴れのコバルトブルーの空がまぶしい。季節も良く新宿駅南口はいつもより人道りが多いように見える。
あずさ8号でお香が来る。ひと月ぶりの再会だ。
11時40分小走りに改札を出て来る淡い黄色いワンピースの彼女が見えた。
走り寄りながら
「随分お待たせしたのではないかしら、ごめんなさい」
息を弾ませながら近づいて来た。お互い手を握りしめ再会を喜んだ。
すぐ、タクシーに乗り、赤坂に向かった。ひと月前、私が隠し宿にいた頃安保法案の廃棄を叫んでデモ隊で溢れた永田町の通りを通ってなじみの割烹に着いた。
天ぷら専門のこの店で今日は、オコゼを食べられるのが楽しみだ。部屋は取らずにカウンターで揚げたてをほうぶることにした。
冷たいビールで再会を祝している内にオコゼが揚がった。揚げたてのバリバリ感がなんとも堪らない。
食事の後は、来た道を御苑に戻った。入り口でお香が招待状を見せて入った。
春に来た時は、満開だった桜並木の道を過ぎると大輪の菊鉢が並んでいる。その向こうには、丹精込めて育てた菊人形が鎮座している。菊独特の薬香が充満している。
池の柵の前には、何組もの老夫婦が記念写真を撮っている。皇居に勤めている知人夫婦も出席している秋の園遊会だ。今日は、どんな人が来ているのだろう。
「克久さま、わたくし、春に桜の枝の中から顔を出して撮っていただいた写真、とても気にいっていますのよ。その3枚を額に入れて部屋に飾ってます」
「そうですか。ありがとう」
「桜の木の下でいただいた茶巾寿司、美味しかったです」
「うん、旨かったね。お香と飲むビールも格別です」
菊愛好者が一年かけて育てた素晴らしい花を来園者が賛嘆の声を出して見学しているがどんな菊花もお香の美しさにはかなわないと私は思った。
お香は、カーテンを開けてすっかり暮れた窓の外を見ている。朝、晴れていれば、このスイートから東京タワーの向こうに浮かぶ晴海に上る朝日が眩しく見える。真っ赤に燃えた朝日を見ながらのコーヒーは格別だ。早起きした甲斐を感じる。
窓外の暗闇にガラスに写ったお香の顔が浮かぶ。じっと外を凝視しているお香の頬に一粒の泪が流れるのが見えた。
「お香、どうしたのですか。なにかあったら話してください」
「いいえ、ご心配なさならいで、ただ、窓の外に広がる夜の灯りが果てしなく続いているのを見ていたら無間地獄に引き込まれそうそうな気持ちになったのです」
24時間眠らない不夜城新宿の街はそれでも更けていく。
戻る
千夜一夜dream 克久ー3
お香とクリスマスイブを過ごすために隠れ宿に来た。寒さの割には何処にも積雪はなかった。谷筋を下って宿の駐車場に着いた。車から降りると玄関からお香が飛び出してきた。
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう。隠し湯で汗をお流しになってくださいまし」
私に近寄って右腕を絡ませてぐいぐい中へ引っ張っていく。
山の端に太陽は隠れた。広葉樹の葉はすでに枯れ落ちオリエンタルブルーの山ブドウの実があちらこちらに見える。野鳥たちのご馳走だ。
玄関に入ると一抱えほどもある紅梅の鉢がドンと据えられて蕾が大きく膨らみ早春の香りがする。
「克久さまは紅梅がお好きでしょう。今日に合わせて3週間前から湯殿にに置いて蕾を成長させておきましたのよ」
私は、お土産を渡して隠し湯に向かった。湯殿には、白梅と紅梅の鉢が置いてあり甘い香りが湯けむりと混ざり私の体を包む。檜の湯舟に体を横たえた。谷川の流れにヒューっと風の音が聞こえ、ローソクの炎が揺れた。
お香が用意してくれたジャージに着替えリビングに入った。
暖炉の炎と淡いブリリアントオレンジのサイドランプ、燭台の揺らめき、チャイコフスキーの旋律でクリスマスムードは盛り上がっている。
お香が昨日から煮込んだというボルシチを青い大皿に持ってきた。
「克久さま、ワインの用意をお願いします」
彼女は、黒のタイツに大きなサファイアを胸につけ椅子に座った。
私は、お香の好きな貴腐ワインのコルクを抜き細身のワイングラスに注いだ。
「メリークリスマス」
「乾杯」
よく冷えた甘いワインが喉の奥まで浸み通った。白鳥の湖は第2幕に移った。
「わたくし、このワインをいただくとマドモワゼル。貴族になった気分になりますことよ。どうしてでしょう」
彼女は、2年前の卒業旅行でハンガリーに行った。その時、ガイドに薦められたのが貴腐ワインでイギリスのエリザベス女王は、ハンガリーの貴腐ワインしか飲まないと聞かされて以来このワインの愛飲者になったのだ。
「わたくし、正月明けにレコーディングが決まり上京します」
「この前寄こしたあの天空のビーナスですか。孤高の雪豹ですか」
「両方です。どうかしら。お聞きになっていただけましたか」
「勿論、何回聴いても聴けば聴くほどのめり込みます。あのサビのところは、鳥肌が立つほど興奮しました。組み立てとテンポ、転換が実に素晴らしいです」
「ありがとう、わたくし、新聞の批評や辣腕のPDのお褒めより、克久さまのお言葉で力が湧いてきますの。本当に嬉しうございます」
チャイコフスキーはくるみ割り人形に変わり軽快なリズムになった。お香の胸でサファイアがキラっと光った。
窓の外は、青い月光で照らされ竹林がザワザワと揺れ遠くフクロウがホーホーと鳴いてクリスマスイブの夜は更けていく。
戻る
千夜一夜dream-4
白波の先にコバルトブルーに囲まれたボーラボーラ島が見えてきた。操縦桿の右にある無線のスイッチを入れた。
「アローディスイズ TW87KSZマシーン、クッジューコンタクト ウイズミー?」
「ウエルカム TW87KSZマシーン ヒアズ ボーラエアーコントロールセンター プリーズ ランディング トウーエアーポート スーン」
「ラージャ サンクス TW87KSZ アイ ウイル ゴートウーランド ナウ」
私は、操縦桿を握り直し、島の南島に伸びる滑走路に機首を向け旋回した。タヒチから丁度50分で着いた。フラップを調整し機首を下げ、スピードを徐々に落とし滑走路のセンターライン目がけて着陸態勢に入った。
滑走路から右に曲がり、駐機場にターボジェットを停めて私は大きく息を吸った。そして助手席のお香と握手を交わした。
「どこまでも続く青い空、青い海、素晴らしいフライトでしたわ。ラストのソフトランディング、貴方は野球でもなんでもお上手なのですね」
青いサングラスの奥の瞳が輝いて見える。
寒い日本を脱出して暖かい所へ行きたいと言うお香の希望であのゴーギャンが愛したボーラボーラ島に来たのだ。
エアポートビルを出るとレンタカーが既にきていた。彼女の好きな真っ赤なポルシェを頼んでおいた。
お香は、空港で貰った情熱の花ブーゲンビリアのレイを風になびかせて椰子の並木道のドライブを楽しんでいる。空港に降り立った時からむっとした暑さだったが風を切って走っていると快い肌触りだ。ここまでくればどんなに派手にしても気にすることはない。ボーラの象徴オテヌマ山がどんどん近づいてくる。
お香は、ハンドルの右手を外し手を高く伸ばし風を切っている。
「なにもかも素敵だわ、まるで夢の中みたいですわ」
「海と空のブルーがなんとも言えないね。あの色、絵具で出せるかなー」
「克久さまなら出せますとも、ゴーギャンに負けない絵をお描きくださいまし。わたくしのお部屋に飾って宝物とさせていただきますことよ」
お香は、車を停めると砂浜へ下りていった。黒い肌の島の子供達が遊んでいる。お香は、白いノースリーブを高く舞い上げて海に入って行った。両手で水をかきあげながら沖に進み体を海に沈めた。
オテヌマ山は、濃いグリーンで山頂はマッターホルンの容をしている。
私はカメラを手に車から降り、砂浜へ向かった。お香は、何か大声で空に向かってしゃべっているが良く聞き取れない。
空に浮かんでいる白い雲が微笑みながらお香に答えているように見える。
克久 千夜一夜dream 5
西麻布の交差点で車を降りた。坂道を少し上った所にお香の知り合いの芸術家が集まるバークラブがある。
8階から10階を自由に行き来できる。10階は、ミラーボールが光の洪水を流しているダンスフロア―、若者がディスコで体をくねらせている。
豪華なシャンデリアとパープルに染まったフロアーの8階バーコーナーにお香と入った。今日は、ここで新書版を出した小説家と今人気沸騰中の彫刻家とのセッションがあるというので50席ある座席はほぼ埋まっている。
左手奥からさかんに手を振っているジーンズの青年がいる。最近同棲を始めたというピアニストの彼女を連れた彫刻家だ。 彼のアトリエで眠っていた作品50点をこのバーで展示したら即日完売したそうだ。
彫刻家の彼女は世界的なピアノコンクールで優勝してからヨーロッパのコンサートに引っ張りだこと聞く。その関係で彫刻家の作品は、フランスの画商が全部買い取ったそうだ。
「お香さーん、こっち、こっち、こちらにお二人の席を用意してありまーす」
その大きな声で会場の視線が一斉にこちらに注いだ。私も注目されているようで足が地に着かない。お香が腕を支えて呉れてやっと席に座れた。
彫刻家は、ピアニストの彼女を絵里さんと言って紹介した。絵里さんは、軽快な鈴の流れるような演奏をするが体系は小柄で太めだ。私とお香に握手を求めた。世界で活躍する魔法の指を握っていいのかしらと脳裏をかすめた。しなやかな指を想像したが結構太目だった。
お香は
「絵里さんと同席出来るとは光栄です。ご主人には、とてもお世話になっています」
ピアニストの絵里さんは
「あら、やだ!私達まだ、入籍していませんのよ」
4人は、ワインで乾杯した。
お香は、一口飲むと振り返り、華奢な女性達と握手を交わしている。皆、バレー公演ではプリマを張れる実力と人気のあるダンサーだそうだ。
「お香ちゃんこの方が油絵をやっている噂の方ですね。私達をモデルにドガのように描いていただけませんこと」
「だめですよ。克久さまは、風景画専門ですから」
「でも、お香ちゃんは、描いていただいているのでしょう]
「いいえ、一枚も描いてもらっていません。私などモデルになれませんわ」
ロレツが回らなくなった絵里が
「そんな事ありませんよ。大和撫子そのものですよ」
ダンサー達も口を揃えて
「そうですよ。純粋培養の大和撫子です。描くべし、描くべし」
トークセッションはそろそろ終わりに近づいてきた。私は片耳でセッションを聞き、片耳で近くの人と話をした。
作家先生の言う事には
「芸術家を育てようとしては、いけない。まずは、人間を育てる事が大事だ。日本の教育はなってない」
彫刻家が言う事には
「芸術というものは、風土、環境から自ずと生まれてくるものだ。だから、芸術作品を見れば、どの年代、どの地方か自然に分かる。芸術作品は気負って創るものでない。己の心から自然に湧き出るものだ」
などと口から泡を出して喋っている.
絵里は、丸顔を赤らめ、目をしばたかせて私に
「あの人、しがない彫刻家なのにやけに口がうまいのよ。あたしは、あの口に騙されたみたいね」
彼女は、頬杖をして大きな顔を支え、ため息をもらした。ダンサー達はそれぞれにカップル見つけて10階に向かった。お客のいなくなったバーの窓外には、神宮外苑の向こうに新宿の高層ビルが黒く立って見える。あのビルの下でも多くの人が他愛のない話題で盛り上がりそのエネルギーが明日への力の糧になると信じているのだろうか。
ふと、我に返った私は、お香の後を追って10階への螺旋階段を上がった。
克久Dream―6
北陸新幹線富山駅でJR高山線に乗り換え白壁にレンガ色の屋根の越中八尾駅に着いた。改札口から待合室を抜けて外に出た。残暑厳しい東京より涼しい風が吹いている。 駅前に黒いワンボックスカーが停まっている。中からダンサーのルイさんが出て来た。 西麻布で会ったプリマの一人だ。彼女は、ここ越中八尾の出身だ。お香がルイさんからおわら風の盆の話を聞いてその魅力に惹かれ私と来た次第だ。 ルイさんは、小走りに近寄り
「お香さん、遠い所よくいらっしゃいました」
と言いながらお香とハグをした。
越中おわら風の盆は9月1日から3日にかけて富山八尾の街を貫く坂の通りで行われる。ルイさんの実家は通りに面した格子戸のある旧民家であった。
今日は最終日、踊りが始まる19時、夕暮れに風の盆と書かれたぼんぼりが果てしなく灯る通りの軒下に2人の席は用意されていた。今朝、富山湾で獲れたというノドグロなどの鮨をご馳走になり席に着いた。
先の小径から三味線、胡弓、太鼓の音色が聞こえて来た。踊りは始まった。「もしやくるかと 窓押し開けて 見れば立山 雪ばかり」とおわら節が夜空に響き、胡弓がヒューヒューと哀調を奏でる。いよいよ勇壮な男踊りが出て来た。飛び跳ねているようだ。つづいて淡いピンク柄の女性達が腕をしなやかに振りながら進んできた。子供達も混じっている。各地域の踊り連が次々と過ぎて行った。
23時におわらの祭りは、終わった。幻想的な祭りの余韻が残る大通りをお香と歩いた。道の両側には、風の盆と書かれた提灯がまだ灯っている。耳の奥には胡弓の弦がまだ響いている。道は上り坂になった。涼しい風が過ぎて行く中、お香の柔らかな暖かい手をとり肩を並べて歩いた。
「克久さま、全員編み笠を被っていましたが、わたくしルイさんの踊りはすぐにわかりましたわ」
とお香が言った。
「そうですね。やはりルイさんは、ダンサーなので特別な筋肉で体が出来ているのですね。ほかの人より踊りがしなやかでさすがに大きなステージでソリストを務めているだけありますね」
と私は答えた。お香はさらにつぶやいた。
「つま先から指先までの動きが本当に見ごたえのある芸術になっていましたわ」
下弦の月が山の端に隠れそうだ。越中おわらで育ち今は、都会のホールでプリマを任されるまでになったルイさんは、なんと素晴らしい人生を作ったのだろう。人間は、何のために生まれて何のために生きて行くのかという言葉が脳裏をかすめた。
角を曲がり、小径に入った。提灯の灯りはなく漆黒の闇になった。しばらく歩くと道は途切れ谷の向こうに大きな山並みが見えた。とうとう月は沈み、星明りだけになった。Wの形をしたカシオペア座がくっきりと見える。星明りに見るお香は凛とした美しさがある。谷底から一陣の風が吹いてきた。私はお香の手をきつく握った。離せば、お香が天空に飛んで行ってしまう錯覚に襲われ更に腕を引き寄せた。満天の星空に黒い立山連峰が突き抜ける雄大な景色の中に2人はいつまでも包まれていた。
克久Dream―7 山陰 余部の鉄橋
厚く垂れこめた雲が掛かる山のトンネルから列車が出て来た。高さ40mもある単線の鉄橋に汽笛を鳴らしながら山陰本線の特急列車は通り過ぎて行く。
「克久さま、あんなに高い所を走って強風の時は危険でありませんこと」
「その通りです。現に大分前ですが列車ごと転落した事があります」
「そんなに大きな事故がおありだったのね。昨日乗って来ました時は、遠くまで海が見えてとても素敵な景色が見られましたが」
トンネルを抜けると雪国だったとは川端康成の雪国の冒頭だが、ここは、トンネルを抜けたら水平線の彼方まで厚い雲が垂れこめていた。
「克久さま、山陰の空はいつもこんなに曇っているのでしょうか」
「そのようです。弁当忘れても傘忘れるなと言われているくらいですから」
2人は、兵庫県の日本海側にある余部鉄橋の下にいた。
「克久さまがお描きになった作品は、このあたりから見た景色でしょうか」
「もう少し、海岸の方です。行ってみましょう」
30分に一度ぐらいの割で大波が寄せるので注意という張り紙を通り越して2人は海岸へ手をつないで歩いた。大きな岩に波が当たり砕け散っていた。
お香が、私の描いた余部の鉄橋の絵をみて本物を見たいと言うので昨日着いて海岸に近い温泉に泊まった。若い時、京都で芸妓をやっていたという宿のおかみが夕餉の世話をしてくれた。以前、有名女優がこの温泉を舞台にした映画が出た後は、観光客が押し寄せて一年中予約客でいっぱいだったがコロナの流行した時は、廃業を考えたこともあると今朝、境港にあがったというカニの殻を剥きながら話し、安来節や貝殻節を唄ってくれた。お香は、東京で食べるカニより10倍も美味しいと上機嫌だ。おかみ推薦の地酒、香住鶴は、カニ料理に合うそうでお香のピッチが早まった。
食事が終わり、胃の疲れ、酔いの収まったところで宿の名物、ひょうたん型の露天風呂にお香と入った。夜も更けて他の入浴者もいなく静かだ。お香の後を追い縁に沿って進み岩場の陰に2人は体を沈めた。遠く波の音、海鳴りの音が聞こえる。厚い雲が切れて十三夜の月が現れた。お香は、おかみに教わった安来節「高い山から 谷底見れば 乙女姿のどじょうすくい」と口ずさんでいる。そして
「そうね、おかみさんにこの踊り教わってダンサーのルイさんに見せてあげましょう」
とつぶやいた。
「ドジョウすくいの踊りは、面白いけどお香には、貝殻節の方が似合いますよ」
「そういえば、そうかもしれませんことね」
「何の因果で貝殻漕ぎなろうた カワイヤノ カワイヤノ 色は黒なる身はやける」
お香は、唄いながら肩を寄せ、私の背中に手をまわして、微笑んだ。
黒い雲が流れて月を隠した。露天風呂は庭の灯ろうだけの暗闇になった。ドドーン ドドーンと近く、ズズーン、ズズーンと遠く、日本海が吠えている。海から山へ怒涛のように雲が走り宿の灯りは消え山陰の夜は更けて行く。
克久dream8-壇ノ浦
早朝、横浜を出て新幹線を乗り継ぎ、11時半、新下関駅に着いた。バスに乗り関門海峡を望む海岸線を走り、壇ノ浦で後払いの料金を払い降りた。
お香は、上下白のパンタロンスーツで決めている。義経が大好きという彼女が源平合戦の最終決戦場を見たいというので壇ノ浦に来た。
バス停前の公園には、義経の八艘飛びと平知盛の碇潜の像が立ちその向こうには、関門大橋が門司に向け延びている。真っ青な空と源氏の旗をイメージしたお香の真っ白なスーツが眩しいコントラストだ。
お香は、義経像の前で写真を撮り
「重い鎧を着て船を飛び移って行けるとは、すごいことですわね」
とずっと義経を見つめている。
「義経は、幼児の頃、平氏に捕らえられて京都の鞍馬寺に預けられました。毎夜、源氏の武士が密かに武道を教えていたそうです」
「そうなんですね。お父様は殺され、お母様は捕らえられるなどされてよく悲しみや苦労に堪えられましたわね」
「母、常盤御前が平清盛に懇願して命を助けられたのですね」
二人は、横に立っているもう一つの碇潜の像の方に歩いた。
「平知盛ですね。敗戦を感じて総大将の知盛は碇を重しに担いで入水したのですね」
「まあ、何んという無慈悲なことでしょう」
「この世で見るべきほどの事は見つと時世の言葉を残して海峡の流れに身を沈めたのです」
お香の目は、真っ赤になりみるみるうちに涙であふれその場に蹲った。
その夜、二人は関門海峡を一望出来る古い旅館に宿を取った。
今朝、下関港に水揚げされたばかりのフグ料理に舌鼓を打った。
いつもは、まずビールで乾杯していたが今夜は、フグに合うという地酒海響にしていた。宿の女将が熱燗の徳利2本を持って座敷に来た。
50代半ばの女将は、お香に徳利を差し出して
「きれいなお嬢さんですね。どんなお仕事をしちょりますか」
「はい、実は、わたくしも関東の田舎で小さな温泉宿をやっておりますのよ」
「ここのテッサはいかがですか」
「透き通るほど薄い割には、しっかり歯ごたえがあり、地酒によく合ってとてもおいしゅうございますわ」
「それは、よかったです。ではごゆっくり」
と言って階段を降りて行った。
ダツダツダツダツ ダツダツダツダツ 風が戸袋を揺らしている。
二人は、障子を開けて外を見た。暗闇の下の方に黒い流れが見える。関門海峡の一番細い所が壇ノ浦だ。早い流れに逆らって汽船が日本海に向けてあえぎあえぎ進んでいる。お香は、汽船のランプを目で追いながら源平合戦を頭で描いているようだ。
谷間のように見える関門海峡の流れから
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
呪文のような唸りが風にのってかすかに聞こえた。
漆黒の流れにブレイクされた汽船は、平氏の亡者に碇を掴まれたかのように激流に拒まれなかなか進まない。暗い海峡には、霧が立ち込め、さらに2艘、3艘と汽船が並んで進んでいる。闇の中にボーボーと霧笛が響き関門海峡の夜は更けていく。